佐々木高綱

大寶山正行寺、「当寺開基は親鸞聖人の弟子了智法師なり。俗性は近江源氏佐々木の四郎高綱なり…」とあります。
2022年のNHK大河ドラマは、この高綱の時代が舞台の「鎌倉殿の13人」。
 第4話~で治承4年(1180)頼朝挙兵の戦いや石橋山の戦いが描かれましたが、そこに登場したが近江源氏佐々木秀義氏と子4兄弟。その4男坊がこの高綱です。その高綱は松本にとって、とってもゆかりのある人物だったのです。

 佐々木四郎高綱は、母親を通じて源頼朝、源義経、源義仲らと従兄弟にあたります。「平家物語」や「源平盛衰記」にその活躍が描かれ、武者絵も数多く残る非常に人気のある武将です。
 寿永3年(1184)「宇治川の戦い」における先陣争いで名を挙げます。高綱25歳。どのようにドラマの中で描かれるのかとても楽しみなのですが、この戦いは木曽義仲追討の戦いですので、信州人にとっては複雑な思いでもありますが…。
 鎌倉幕府の長門・周防守護等を歴任するなど功績、武名、家柄などすべてにおいて日本を代表する武将の一人でもある高綱。男盛りの36歳、時代は鎌倉全盛の建久6年(1195)に、家督を嫡子重綱に譲り「西入」と号し高野山で出家してしまいます。なぜ出家したのかは定かではありませんが、『世の有様を感ずるに、小人時を得て、讒者(ざんしゃ)世にはばかる。富貴は浮世の如く…』は、高綱が残したと伝わる言葉です。
 源平の争乱は宇治川の戦いの通り、源氏同士でも争うというやるせない合戦も幾多展開されました。一ノ谷の合戦で平敦盛との一騎打ちの熊谷直美も、屋久島の合戦で扇の的を射た那須与一も、帰依しています。その虚しさ、非情さに心を痛めた武将は少なくなかったようです。諸国を行脚した高綱は、佐渡に流された親鸞と出会い「了智」と名乗ります。親鸞が常陸へ赴くのに従い信濃に入り、松本において布教したといわれ、栗林村(松本市島立南栗)に正行寺を開基します。
 その後正行寺は、石川氏により同家の菩提寺として六九に移され、のち下横田町に移りました。下横田町(現大手5丁目)の正行寺が浄土真宗本願寺派大宝山高綱院正行寺です。
 松本市立高綱中学校の名称は公募で決められました。地元ではこの一帯を高綱原と呼んでいます。今でも地域の人々の敬意を集めていることがわかります。
 了智上人がこの地で息を引き取ったのは、宇治川の戦いから37年後、享年62歳と伝わります。
 開基当時の正行寺跡にある「了智上人の墓」=「佐々木高綱の墓」は松本市特別史跡に指定されています。ドラマを機会に、改めて地域の歴史に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。

文:松本商工会議所専務理事 赤廣三郎 松本商工会議所 会報まつもと 2022年3月号 より

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